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むかしのこと

むかしのことを話したりするとき、それがあたかも本当にあったことのように話していたりするけれど、いまこの瞬間に自分によって語られる「過去」と本当にそのとき存在していた「時間と感覚」の間には大きな隔たりがある。当たり前のことだけれど、それを意識せずに過去の話をしていると、自分の回想が真実であると信じて疑わなくなっていく。いまの自分がこうであるのはあのときこうだったからだと言い切れる人と話すとき、その人が抱えている、過去の経験と現在の自分のありようの因果関係への頑固な信頼はその人を強く縛って不自由にしているように感じる。しかしその因果関係への懐疑心を他人がとやかく言うのは憚れるべき?と考えたりして、なかなか指摘しにくい。でも、これまで自分が過ごしてきた時間の蓄積がそのままいまの自分の結果であるなんていう意識は個人的に恐ろしい。いつも思い出すような辛い言葉とか印象的な瞬間があるけれど、それはそれで、いまの自分にとっても過去の自分にとっても何も意味をなさない。くだらない人間からかけられた言葉は憎むべきだけのものであり、絶対に現在の自分をも傷つけ続けさせていい言葉ではないはず。これまでの時間は今の時間に接続されているだけであって、切断して生きることだってできると思う。

 

過去に関係していた人たちのことなんて究極的にはどうでもいいのだけど、新しい人、まったく別の人と接しているはずなのに、その人との接触を介して過去の自分が蘇るような感覚が最近多々あって、それは全く知らない新しい人と接しているはずなのに、自分がむかしに接していた人と同じように接していて、そのときの他人は自分にとって無機物と同じなんじゃないか?と疑問が出てきた。つまり自分がまったく同じように接する他人が二人いたとき、その二人は自分にとって差異がないことになって、その人と接しているときの自分は失われても全く構わない存在だということになるわけだ。それが良いことか悪いことか分からないけれど、自分が持っている他人との関係の希薄さばかりが灰汁のように浮かんでいて、他人に依存してしまうほど弱くもなければ他人に依存できるほど強くありません精神だけど、「手当て」するというように人の手には特別なものがあると思う。

 

以上、自分が読みたくないようなことを書いてみたでした。

 

なんか働いて貯金してとか考えていたけど、馬鹿馬鹿しくなってきたので仕事を減らしてしっかり勉強したりブログ他にも作ったりしようと思いました。年内は頑張って働くつもりだけど、年明けから少し生活を見直そうっと!

 

切実な哀しみにふれると感じる小ささを大切にしたいと思いました。

 

おわり