自己分析

‪学生の頃、自己分析をさせられることがあったと思う。アルバイトを探すとき履歴書に自己PRの欄を埋めたことがある。でも、どれもどんなことを書いてもその言葉が自分を表しているとは到底思えなかった気がする。学生の頃、よくコミュニケーションが取れずに困っていた。相手が自分との接触によって構築した自分像を相手の自分に対する言動の中に発見したとき、戸惑い、悲しみ、怒り、憤った。本当の自分は違う!と思った。でも、本当の自分なんてそんな大それたものはないのだと考えるようになった。自分は一人一人との関係性の中に生きていると考えるようになったからだ。彼に対する自分と彼女に対する自分を切り離して考えるようになった。それはとても楽な捉え方だと思った。自分は彼等にとっては冴えない奴かもしれない。つまらない奴かもしれない。そういう自分も自分だけど、他方で自分は魅力的な自分として存在できると感じた。誰にとっても魅力的である必要なんてないわけだ。打率が高い人になりたいという想いはなかなか消えないし、結局なかなかコミュニケーションが上手くいかないと凹む。でも、それはその中だけの自分に過ぎない。やっぱり自分は結局相手に依存したコミュニケーションしか取れないみたいで、それはつまりどういうことかというと、この人とあの人といるのでは全く居心地が違ってしまい、それはつまり多くの人と共存する能力がないというわけだ。自分は怒りん坊で甘えん坊らしい。‬人によって態度を変えて、その人と一緒にいると居心地が良いというのは、その人の中にある自分像に甘えているということだと思う。こんな自分を評価してくれる人に会えた。こちらに来て一番いっしょに時間を過ごしているのは68歳の人だ。とても仲が良い。魅力的な人で凄い人だ。その人に評価される自分、殺したくない。その人の中にある自分に支えられることがあるし、鼓舞されることもある。バンクーバー、冬は日照時間がとても短く雨が多く(そのうえ今年は)寒く嫌いだ。だけど戻ってくる。年に数回戻ってくる!カナダに来て、のんびり自由になるつもりが金持ちになりたい、自由になりたい!!自由のためにお金がいる!と思うようになってしまった。宝くじ当たればなあ。何処に住んでいても考えることは大抵同じかもしれない。ありあまる富、同時に存在する自分、要らない自分を消せる自由がほしい。