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古本市

バンクーバーには日本人がたくさん居るので、立派なコミュニティセンターがあります。そこで月1回ほどの頻度で開催されるブックセールに行きます。

 

今度書く予定だけど、オーナーが残念だったので引っ越すことになり、荷物を整理していたら、本が26冊もありました。半分くらいしか読んでない。Kindleでは最近「女子をこじらせて」読んでます。

 

バンクーバーの中央図書館には最新の文芸書がけっこう入ってくるみたいで、日本ならけっこう待たないと借りれないだろうな〜みたいな小説も手に取れます。ただ、週7勤務になってしまったので、読む時間もなければそもそも体力もないし、元気もないです。家のトラブルもあって精神的にもやられてます。でも、大したことないはず。こんなこと。

 

日本、メディアが変わればけっこう好きかもしれない。メディアがおかしい。ダメにしている。薬物使用がスキャンダルになる社会はおかしい。薬物の使用を罰する必要なんてないのにー。というような憤りを結局どこにいても感じるのはつまりもうそういう頭なんだ。

 

憤り病、ただそこで止まってるのやめたい。

aoisora

雨続きのバンクーバーから。

生きていることと、ただ生きていることは違う?

 

頭の中を視覚化する手段としての文字であり文章であるけれど、歌のように同じ言葉でも使う人によって意味や感じ方が変わってくるのかな。

 

何のためにカナダ来て何のために週六日働いているのか、来年何のために100万円を持って日本に帰るのか、よくわからないや。だけど、どういうわけかやっぱりお金は大事だなというふうに感じてきちゃった。それはどういうわけかというと、結局、人と生きていかないといけないんだなって思うし、なぜだか人と生きるためにはさ、お金がいるんだよね。あんまり個人的にはさ、特別、人が好きだったりしないと思っていたのだけど、どうやらね、誰かと生きていきたいなあとか感じたりさ、するとさ、ああ、稼がないとなって思うわけさ。でも、そこにももちろん葛藤はあるわけで、なんで人と生きたいな、好きな人とさ、いっしょに美味しいものさ、本当においしいもの食べたりさ、いろんなとこ行ったり、内見とか行って同居なんかしちゃってさ、しまいには結婚なんてことになったり想像して、「いいんじゃん?やってみたくない?」とか思ったりしてさ、そのあとに出てくる発想が「金稼がないとなあ」なんだろうって。寂しいよなあ。

 

こっちで仲良くしてる人とある小説の話をして、その小説は「こうあるべきだ」に対して、みんなもっと優しくなろうよ、いろんな生き方肯定していこうよ、っていうようなさ、ざっくり言えば、そういうふうなのでさ、でもその人は、色んな生き方している人がいたとしても、その人が生きている世界には、その人を利用している人がいて、そのシステムや体制を破壊するようなのが、読みたいなあって言った。たしかになって思った。好きな人と子どもと住んでるのに会えないとか何なんだろう。どんな強大なものでもそういうものが転移した何か、自分の手の届く狭い世界のそういうものをぶっ壊すような生き方したいや。

 

そういうものが書きたいし、そういう生き方したい。ただ、こっちに来て慣れてきて土地に縛られない生き方は最高だと思った。いつでも帰れるからそう思うのかもしれないけど、誰だって、きっと、どこにだって行けるんじゃないかな?

 

 

言ってみたい台詞

「恥を知れ!」

「お黙り!」

 

あまり思い浮かばなかった。こうしてここに散文を書いているが、意識的に改行を入れていない。必要以上の改行(空間)を入れて書いたほうが面白くなるというか、見栄えも良くて簡単なのだが、そんなの使っていてはダメなのだ。

 

でももうこのブログの寿命というか天命が尽きたような気がしていて、そろそろ御開きかもしれない。とか何とか言って少しずつでも更新していけたらと思うのだけど、ネタがないっちゃネタがないのである。(苦笑)

 

だけど、さっきおもったことを一つ書く。人が死んだとき、その人の死因を憶測したりするのは恥ずかしいことじゃないのか。「自殺かな?」って自分も思うことがあるけれど、「自殺」というのは遺族の意向で「事故」として処理されることもあると聞いたことがあった。尾崎豊なんかも「自殺」か「事故」か言い合いがあるけど、そんなこと気にするべきじゃないと思う。それに今の世界って自殺を否定できるような世界じゃない気がする。

 

これから短くても改行過多でも更新頻度上げようかしら(上げる上げる詐欺)。

 

!そういえば時給上がった。上司に話して、上司が社長に言ってくれた。嬉しい限りですが、直談判した自分だけじゃなく、何もせずにボケーとしてた人たちの給料も月に160ドルも上がるのか、と思うととか小さいこと思うのが人間だなとか人間のせいにするなと思うし自分は昔からガメツかった。

 

ビフォー

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アフター

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こっちは時給上がったほうじゃないし、割に合わないけど頑張ってます。

 

おわり

ミクロな世界

銭闘民になり、オルグしてしまった。円高でカナダドルのレートが一年前の11月から比べて20円下がっている。このままトランプが勝てば円高が進み、アメリカに経済的に依存してるカナダ経済はもちろん落ちるし、米ドルと同じ動きをすると言われてるカナダドルも当たり前だけど、落ちる。とにかく個人的にタイミングが悪い。ここまではどこまでもタイミングが悪い渡加である。SMAP解散。新ゴジラ君の名は。この世界の片隅にベイスターズCS進出。円高・カナダドル安。

 

それから、大きなことが起こるときにとりこぼされるような小さなことをすくい取るようなことがしたいと思っているのだが、ここまで世界が変わっていくときに、例えば中学生の女の子が二人で手を繋いで電車に飛び込んだことになんて興味を持てることじゃないのかもしれない。高江のことすら、日本のメディアであまり大きく取り上げられておらず、知らない人も多い?のに、自分が興味のあることが、自分だけで完結して満足できないからこそ、頑張って書こうと思ったりすることがあるというのに、支離滅裂な愚痴を書くことしかできずに、カナダで英語も勉強せずにくだらない生活をしてるなんて、本当に阿呆阿呆であるよ。

 

まあトランプね。国内で使い切るか、もう働くの馬鹿らしいから辞めるかだけど、来年一度帰国して観光ビザで半年くらい勉強しようかなあ。

 

で、まあもう少し変わっていかないとな、と思ったり。べきだべきだカッコいいのはどっちとか考えずに生きよう。

 

はあ。凹む凹む。

 

おわり

むかしのこと

むかしのことを話したりするとき、それがあたかも本当にあったことのように話していたりするけれど、いまこの瞬間に自分によって語られる「過去」と本当にそのとき存在していた「時間と感覚」の間には大きな隔たりがある。当たり前のことだけれど、それを意識せずに過去の話をしていると、自分の回想が真実であると信じて疑わなくなっていく。いまの自分がこうであるのはあのときこうだったからだと言い切れる人と話すとき、その人が抱えている、過去の経験と現在の自分のありようの因果関係への頑固な信頼はその人を強く縛って不自由にしているように感じる。しかしその因果関係への懐疑心を他人がとやかく言うのは憚れるべき?と考えたりして、なかなか指摘しにくい。でも、これまで自分が過ごしてきた時間の蓄積がそのままいまの自分の結果であるなんていう意識は個人的に恐ろしい。いつも思い出すような辛い言葉とか印象的な瞬間があるけれど、それはそれで、いまの自分にとっても過去の自分にとっても何も意味をなさない。くだらない人間からかけられた言葉は憎むべきだけのものであり、絶対に現在の自分をも傷つけ続けさせていい言葉ではないはず。これまでの時間は今の時間に接続されているだけであって、切断して生きることだってできると思う。

 

過去に関係していた人たちのことなんて究極的にはどうでもいいのだけど、新しい人、まったく別の人と接しているはずなのに、その人との接触を介して過去の自分が蘇るような感覚が最近多々あって、それは全く知らない新しい人と接しているはずなのに、自分がむかしに接していた人と同じように接していて、そのときの他人は自分にとって無機物と同じなんじゃないか?と疑問が出てきた。つまり自分がまったく同じように接する他人が二人いたとき、その二人は自分にとって差異がないことになって、その人と接しているときの自分は失われても全く構わない存在だということになるわけだ。それが良いことか悪いことか分からないけれど、自分が持っている他人との関係の希薄さばかりが灰汁のように浮かんでいて、他人に依存してしまうほど弱くもなければ他人に依存できるほど強くありません精神だけど、「手当て」するというように人の手には特別なものがあると思う。

 

以上、自分が読みたくないようなことを書いてみたでした。

 

なんか働いて貯金してとか考えていたけど、馬鹿馬鹿しくなってきたので仕事を減らしてしっかり勉強したりブログ他にも作ったりしようと思いました。年内は頑張って働くつもりだけど、年明けから少し生活を見直そうっと!

 

切実な哀しみにふれると感じる小ささを大切にしたいと思いました。

 

おわり